2008-09-27

追悼:Paul Newman。[Paul Newman is "Hud"!]

Paul Newmanが癌のために83歳で死去。かつて映画の中のヒーローがパーフェクトな存在であった頃、ちょっと影を持ったヒーロという形を確立したのは彼だったと思う。アウトロー的な意味ではなく、人に言いにくい過去があるような雰囲気。マイナーだけれど彼が出演した映画の中で僕が好きなのは『ハッド(Hud)』で、この中で彼はどうしようもなく大人になりきれていない不良っぽい男"Hud"を見事に演じている。と言うよりもHudという男がPaul Newmanによって演じられているのではなく、まるでPaul Newmanの身体にHudが取り憑いているようにさえ見える。それから数十年後に彼はKevin Costner主演の『メッセージ・イン・ア・ボトル(Message in a Bottle)』で年老いた父親役を演じているのだけれど、この映画の中でPaul Newmanは「俺はもう歳を取ったが、もし若かったらあんたは厄介な事に巻き込まれてたぞ」と女性に笑顔でウィンクしながら言うシーンがあり、これがまるでHudが年老いた姿(やんちゃだけれど影もある)にも見えるほどである。もちろん『ハスラー(The Hustler)』や『明日に向かって撃て(Butch Cassidy and the Sundance Kid)』、あるいは『スティング(The Sting)』の彼も好きだけれど、でも僕はやっぱりHudとしてのPaul Newmanがいちばん好きで、こういう役が出て来る映画そのものが少なくなってしまった事自体が残念に思えます。

2008-09-26

大量消費のパワーでダイエットか。[Bananaphobia]

今朝のFMで聞いて驚いたのだけれど、何やら今回はバナナが全国的に品薄らしいですね。朝食としてバナナを食べて昼食や夕食は通常通りに食べるだけでダイエットになるという話があるようで、全国各地のスーパーではバナナ不足のようです。ここ数ヶ月間たまたま職場にバナナを朝食として持って行く僕のようなバナナ常用者としては困るんだけれど、あ、でも実はバナナを朝食に持たせているのはうちの奥さんがこっそり僕を痩せさせようと企んでいるのかも知れない:-) でもね、こういう一過性の○○ダイエットのように商品がドッと売れて店頭から姿を消すといつも思うんだけれど、人の消費力のスゴさを感じるというか、例えば身近にある近所のスーパーのバナナコーナーからバナナが消えるのは何となく想像つくけど、同じ現象が日本全国で発生しているわけで、そう思うとそもそも今まで全国各地で売られていたバナナの量の事を考えると恐怖感さえ感じてしまいます。超巨大な低温輸送船にて遠路はるばる恐ろしい量のバナナが日本へやって来ていた事は日常的だった訳でして、そのバナナ達が普通に生活していた我々によって全国各地でせっせと消費されていたと考えると、改めてものすごいパワーだなあと思うのですよ。別にバナナに限った話じゃないんだけれど、大量の数と大量の消費パワーを思うと何だか不気味ささえ感じてしまう。その大量の数に対して恐怖感を抱くのは何とか恐怖症だよと昔知り合いに言われた事があって、今になって何て名前だったか調べてみたけどちょっと出てこなかった。不謹慎ながら一見笑える何とか恐怖症って膨大にあるからね、、、。でも熱にうなされて寝ている時などたまに自分が大量に数字を数えなくちゃいけなくて困っている夢をみたりするので、そういう兆候というのはあるのかも知れません。と、バナナとは違う話になってしまったけれど、恐怖症の名称を探していた時に見て思わず笑ってしまったのは「 Sesquipedalophobia」という長い単語に対する恐怖症。この単語自体長いのはどうなのでしょう。

2008-09-25

リヨカンに久々泊まった。[「宿」ってこんなイメージ]

厳密には出張と呼べないと思うけど、先日ある大きな会合が終わって我々主催者でも仲の良い数人だけが集まって慰労会を開催したので富良野界隈まで行ってました。十勝岳では初冠雪が見られたという事で気温はずいぶん秋らしくなってきて、ついに冬が始まるんだなあと体感です。今回宿泊したのは現地の方に取っていただいた旅館、温泉旅館じゃなくて民宿に近くてまさしく「宿」という感じのところでした。年間およそ30日くらいは出張でビジネスホテルに宿泊しているわけですが、旅館は初めてです。トイレやお風呂が共同、部屋は4畳半ほど、そんなところ。最初「えーっ」と思ったものの、そういえば自分が子どもの頃の旅行ってこういうところが多かったんだよなといろいろ思い出し、改装したばかりでキレイだし、ハマりそうとまでは言えないですが最後は割と気に入ってました。1階に5部屋くらいかな、あと2階に8部屋くらいあるだけの旅館で、経営も60代の夫婦でやっているような感じでして、初めて泊まったのに親しくしてくれて懐かしい気分にさせてくれて、1泊だけだったけどずいぶん長居したような感覚です。画像を撮ろうと思ったものの、角度が難しくて断念、、、。毎回出張から帰ってきて自分のベッドに戻るとホッとするものなんだけど、今回は当然布団だったので余計にホッとしました(布団では寝られない体質なのです)。まあ、外出先で寝る時にはだいたいひどく酔っぱらっているので結局は眠れるんだけれどね、、、。美味しい料理をいただき、とても楽しい時間を過ごさせていただきました。そういえば旅館と言えば思い出したが、英語圏の方々は「旅館」の発音が非常に難しいらしく、たぶん日本語慣れしている方は平気なのかも知れないけど、数ヶ月前に結婚したカナダ人のDavid(仮名)に何度教えても発音できなかった。「ryo(りょ)」が言えなくて「ri-yo(りよ)」になってしまう。日本人に見られる英語発音の難しさの代表格はLR問題だけど、それ以上に僕は難しいと思う「ear」「year」発音くらい「ryo」は英語ネイティヴにとって難しいのではないのだろうか。どうでもいいオチですみません。

2008-09-17

数年振りに飲んだラガー。[数量限定がちょうどいい]

「コンビニにラガー売ってたよ」と先日うちの弟が一言、「ええーっ??」と僕。どうやら数量限定で"赤星"がついたサッポロラガービールが缶で発売されたようです。早速購入して飲んでみましたが、瓶の美味しさは欠けるもののやっぱり旨い、、、。でも数量限定だからいいのであって、毎日いつでも売られるようになったら+アルファな要素がなくなってつまらないかもね。売られているところをお目にかかる事は非常に少なく、お酒屋さんの友達に聞いても取り寄せになるという事で、商品の生産量そのものが少ないのか、あまり人気がないのか、どうなんでしょう。阿寒湖畔に鶴雅という顧客満足度が全国一となった事もある温泉ホテルがあって、数年前に行った時に部屋の冷蔵庫を開けてみたら赤星の中瓶が冷えていました。これだけで僕としては顧客満足度100点を与えたいところでして、とにかく僕の中では貴重な存在となっております。かつてのヱビスのような存在に近いのかも知れない。10月からは冬物語も発売するし、もうそんな季節なんだなあ、、、。

2008-09-16

往復はがきの謎。[この世に存在する機械じかけの神]

うちの会社の社長が某団体の受け口になっているため、時々開催されるイベントへの参加出欠用の往復はがきの返信部分が届くのですけど、中には非常にビックリするものもあって、切って投函するのではなく、往復はがきの返信面を表にしてセロテープで止めて出す人もいるようです、、、。ハンドメイド圧着ハガキだ。見ているとこういう事をするのは若い方々のようでして、最近の若い連中は往復はがきの出し方も知らないのかと唖然としてしまいますが、でもひょっとすると書き込んだ名前と住所を見られたくないので保護目的でこうやって出しているのかなあと、今のご時世を考えるとそう思えてきてしまいます。でもいくらなんでもそりゃねえよなとは思ったものの、実は僕が今まで切って出していただけで、別にこれが正確だと言い切れないなと思って調べてみました。そもそも往復はがきは往復で100円、往路と復路のハガキにそれぞれ50円切手のマークがあるけど、実際は2枚くっついているから厳密に言えば「定形外料金+復路50円」であって、100円ぴったりという事にはならないはず。でもこれを往復はがきというシステムにする事で100円で済ませている訳です。まるでデウス・エクス・マキナのようですね。で、料金の事は別にしておいて「出し方」について調べてみると、返信は切って出せとはサイトに明記されておらず、ただ往路の場合に折って出せという事だけ。よく考えたら往路は2枚で来るんだから復路も2枚で出しても問題ないと---ちょっとへ理屈だけど---解釈してもいいのかも。社会的な通念で言えば切って返信部分を投函すべきだと思うけど、でも往復システムに対する強い信念(もしくは誤解)を元にテープ止めしたり切らず2枚つながった元の形のまま投函している奴だったらと思うと、何だか世の中って危うい気がしてくるので不思議だ、、、。最後にどうでもいい事なんだけど、画像のように4枚繋がったシート状のハガキって売ってるそうですね。最近のプリンターなら1枚づつプリント出来るけど、印刷機(マスターをスキャンする方ね)になるとハガキサイズを刷るのが困難なのでA4に近い形なら非常に助かる人もいるわけでして、うちの会社の印刷機もこれからこれを使おうかなと考えてます。

2008-09-10

This Bird has Flown.[久しぶりに読み返す]

先週末ある福祉関係のお祭りがあって家族で行って来ました。障害を持つ方々や難病の会などいろんな団体がチャリティを行ってて、中には古本屋さんもあってちょっと見ていると「これ、おすすめですよー」とお店の方に出されたのはハードカバーの"ノルウェイの森"の上下巻。まさか初版じゃないよなと思って期待したけど第14版、そんな訳ないよね。「昔はカッコいい事ばっかり書いてーと思ってたんですけど、今読んだらなかなかいいですよ」とそのお店の方、僕がハルキストだと言ってからハルキさんの話を少ししてから購入。上下両方で200円でした。と、言う事でひょんな事から"ノルウェイの森"を読み返しています。他のハルキ作品同様この本も若い頃に何度も何度も読み返したけれど、先日"1973年のピンボール"を読み返した時も思いましたが、やっぱり読んだ時の自分の年齢によって感じ方って違ってて何だか新鮮なものです。中でも昔読んだ時にいちばんのお気に入りだった部分というのは主人公が数年後にアリゾナだかどこかで見る強烈な夕焼けのシーンで、ここが読みたくて進めているけれど未だそこまで到達しておらず。僕がそんな強烈な夕焼け見てみたいと思って読んでいた数年後、実際に僕は同じアメリカの地でものすごい夕焼けを見る事が出来て、今まで見た光景の中ではいちばん美しいものであり、---たぶん、おそらく---今後それほど美しい夕焼けを見る事は出来ないだろうな。見ている状況や心境が感想を大きく左右すると思うけど、たぶん"ノルウェイの森"の主人公が夕焼けを見た時の気持ちと僕が夕焼けを見た時の気持ちは同じだったと思う。今日は久しぶりにきれいな夕焼けだったので1枚撮影、以前は空の画像をもっと載せていたような気がするけど久々です。ところで日本語表記でハルキさんの小説は"ノルウェイの森"であり、The Beatlesの曲は"ノルウェーの森"。差に何かあるんだろうね。

2008-09-09

おつかれさまです![元気よく言われてもなあ]

以前にもこのBlogだったか前のBlogだったかに道をよく聞かれると書いた事があるけど、今日は人に間違えられるという話。先日の日曜日の出張帰り、たまたま買い物に寄った(ここが重要)某ジャスコの入り口に突っ立っていると、「ありがとうございました!」と元気のいい声が聞こえました。振り返ると中から出て来たお客さんに挨拶している警備員さん、夜も9時近いのにまだまだやる気十分な感じ。元気いいなあと思っていると彼が僕の前を通過する時に言った僕への言葉は「おつかれさまです!」、、、。鳩が豆鉄砲を喰らった感じなんて生ぬるい。彼のその言葉で僕の動きは完全に封じ込まれ、不覚ながら僕は大きくうなずく事しか出来ず、、、。一緒に居た僕の弟はゲラゲラ笑っています。えーと、これは完全に僕の格好ですね。なぜならその日は会議の後だったからジャケットを脱いでシャツにペールオレンジのパンツという格好で、買い物に来るより同じジャスコのテナントで働いているという雰囲気だったから、、、。でもねえ、バッジもなにもつけていないのになあと思いつつ、その後に買い物しようと入った某テナント店ではどこかの店が偵察に来ているんじゃないのかと店員さんに思われていたら面倒だなと思い始めてしまい、段々気になってきて買い物どころじゃなくなってしまいました。やれやれ、、、。でも実は言うと買い物してたりすると時々その店の店員かと思われて他のお客さんに話しかけられる事は度々あって、どうもこれは僕の職業病の一種というか、昔うちの奥さんに言われたのは「ついつい店側の視点的な立ち振る舞いをする雰囲気があるのではないのだろうか」という事。なるほど。

2008-09-07

誰にもわからないけれど。[ピアフの人生]

出張から夜遅くに戻ってきてお風呂に入り、ホッとしてTVをつけると『エディット・ピアフ〜愛の讃歌〜(La Mome)』がWOWOWで放送してたので観てしまいました。あまりシャンソンは聴く事がないけど、彼女の丸くて柔らかいけど響きのある歌声、素敵ですね。彼女は人を愛そうとするのだけれど、どうしても逃してしまう。外因的な理由もあれば自分のせいで失うものも多くて幸せな人生にはならないのに、彼女は歌と共に人生を歩み、そしてたくさんの人に彼女と彼女の歌は愛され、最後は安息の地とも言えるステージに再度立って映画は終了。でも観ていてものすごく印象に残ったのはカリフォルニアの静かなマリブビーチにひとりで座って編み物をする彼女の姿、ずっとフランスに居た人なのかと思っていたのでそのマリブビーチという意外な場所も強烈だったけれど、そこへ取材に来た女性が投げかけるたくさんの質問に笑顔で答える場面が心に残っています。いろいろあったけれどここにやっと来る事が出来たじゃないか、そんな風に思える1シーンでした。もちろん映画だからどの程度事実と相違があるのかわからないけれど、悲劇とも言える彼女の人生の中でひょっとするとこうやって手に伸ばせばすぐに届く安息こそ、実は無意識に彼女が求めていたものなのではないのかなと思えてしまう。小さな安息が集まって幸せになる、小さいけど確固な幸せなものが満ち溢れれば、それはそれでいいんじゃないのかなと僕は思ってしまうのだけれど、彼女が本質的に求めたものというのは何だったのか、そのピアフ本人にしかわからない事は何なのかとあえてこの映画は我々に問いかけているような気がしました。なかなかよかったです。