2009-06-29

東京出張。[今回はあっと言う間]

土曜日から月曜日まで東京出張でした。でも先日からどうも耳の具合が悪いままなので飛行機に乗るとどうなるか心配だったけれど、ずっと塞がった感じがしていた左耳は不思議と抜けた一方、今度は右耳が塞がってしまいました。そんな訳で会議に耳が塞がったまま行く訳にもいかないから羽田に到着してすぐに空港内クリニックに行く事に、、、。今回は本当にめずらしく数年振りにANA(と言ってもAIR DO機材の共同運行便)なので初めて羽田第二ターミナル使用だったからいろいろ見てみようと思ったけれど、なーんと第二ターミナルのクリニックには耳の気圧を調節する用具がないとの事。出来るのは第一ターミナルのクリニックだが12時になると昼休みに入ると言うので、焦って巡回バスに乗って第一ターミナルのクリニックへ。結局どうも僕は第二ターミナルにあまり縁がないようだ。とにかく第一ターミナルのクリニックへ行くとすぐ診てもらえたんだけれど、「あまり強引に気圧を調整するのはよくない、点鼻薬を使いなさい、夕方には聞こえるようになるから」と処方される。それで大丈夫かなあと思って心配になる一方、不思議とこのドクターを信じていいんじゃないかなと思って点鼻薬を使う事にしました。その後バスに乗って新宿まで移動(時間がある時はバスをオススメします)、すると夕方ドクターの予言(彼女が言う言葉は診断や予測というより、予言という言葉が似合う)通り聞こえるようになりました。これで会議も一安心、と思っていたら段々今度は左耳が塞がってしまった、、、。そんな訳で耳の具合が悪いまま会議に出たのですが、どうも自分の声がどれぐらい小さいのか大きいのかわからない。人に話しかけられても不便だし、耳が悪い人の気持ちを改めて実感できました。普段から耳の悪い人たちと話す時は僕も気をつけようと思う。画像は第二ターミナルで見る747。やっぱり747はいいな。


今回は時間があまりなくて会いたい人にも会えなかったのですが、高校時代の同級生数名と会える事になって、中には十数年振りに会う友達も居て楽しく過ごさせてもらいました。みんな大人になったなあと実感。でもなんか、ついこの間学校で会ったような気がするけど、それはもうずいぶん前の話であって、突然時空を抜けてみんな大人になったようにも思えます。ただ僕だけが子どものままなような気さえする。今回の出張に出て来る前、家のクローゼットから古いMDを引っ張りだして車の中で聴いていたんだけれど、聴いたホール&オーツの「Wait For Me」がずっと頭の中で巡っていて、自分だけが子どものままでみんな大人になってしまい、ちょっと僕を待ってて欲しいという気持ちとシンクロして変な感じ。


帰りはちゃんと第二ターミナルをうろうろする事が出来ました。でも思っていたよりも狭いですね。ちょっとしたアメリカの空港みたいな感じだけれど、どことなく仙台空港にも似てる雰囲気があるような。でも使い勝手は悪くないですね、ラウンジにはFREESPOTも通じてるからネットにアクセスできるし便利です。それにしても、、、今回は疲れた、、、。強行スケジュールでもあったんだけれど、家に帰って来たら眠くて眠くてベッドに入って本当に一瞬で眠れました。

2009-06-25

髪を短くしました![女の子になったようです]

いやあ、、、久しぶりに朝帰りしました:-) 友達のバーで友人Kと3人でポーカーをしながら飲んでて、罰ゲームにショットを飲んでいると寝てしまい、気がついたら友人の家でした。もちろん次の日が休みだったのでここまで出来たけれど、仕事だったら死んでましたね、、、。午前10時半に家に戻り、シャワーを浴びてうだうだし、夕方娘を保育園に迎えに行ってからヘアカットへ。僕もなかなか行けなかったんだけれど、娘も行きたいというので一緒に行き、今回ずいぶんしっかり娘は髪を切りました。知ってる人が見ると絶対わかるくらい、と言うかそれ以上、みんな驚くくらい。大人っぽく見えるような気がします。もう来月には5歳だもんな、、、。


月末に地域のイベントがあって、うちの保育園もそれに出し物をするので火曜日の夜に練習と父母の会役員会があったので行って来た時の話。先日書いた“やきとりじいさん体操”をみんなでやってから解散する予定だったのに、娘は途中で帰ると言い出しました。表情もなんか変な感じで微妙な顔つきをしています。何かショックを受ける事でもあったのかなあと思って、まあ、夜も遅くなりつつあったし僕と娘のふたりで帰って来た訳ですが、帰る途中ずっと娘はクルマの中で外を向いたまま無言。これって何かに似てるなあと僕はずっと考えてて思い出したのは、自分がまだ若かった頃何か不本意に女の子に言ってしまい、その子が不機嫌になって口を聞かずずっと外を向いているような雰囲気:-) もちろん相手を傷つけるために言った言葉でもなく、つい何となく言ってしまった“言うべきじゃなかった一言”を言ってしまったような感じで、クルマの中は重苦しい空気が漂ってました、、、。助手席に座って外を黙って見ているのは娘なんだけれど、流れる景色や夜のドライブという情景も加わっていろんな事を思い出し、そしてなんだか娘が4歳の子どもから女の子へ変化していくのを、初めて僕は---それが思い違いであったとしても---感じた瞬間だったのは確かです。結局彼女が微妙な顔をしながら途中で帰ると言った理由が次の日に判明、実は風邪をひいただけのようでした。1日休んで次の日にはまた元気いっぱいです。

2009-06-21

父の日のプレゼント。[はたしてどっちなのだろう]

日曜日は父の日、娘が保育園で似顔絵と似顔絵入りキーホルダーを作ってくれたのをもらいました。キーホルダーに書かれた文字が彼女が書いたものではないのですが、最近自分の名前を書く時にハートを付け足したりと、女の子らしくなってきています。左のハートは三つ又ですね:-) とここまで書いて思ったんだけれど、ひょっとするとキーホルダーに描かれた絵はこれは僕ではなくてレイラなのだろうか、、、。上の似顔絵とは明らかに人物が違うし、うーん、どうなんだろう。まだ今更訊けないような年齢でもないので(そんな気を使わなくてもいいので)訊いてみようっと。だいたい「レイラ」と書かれているのはレイラが作ったものという意味ではなく、人物がレイラである事を意味しているのかも。勝手な僕の思い違いなのかな、、、。

※6月23日付け後述
 キーホルダーの顔について娘に訊くと最初は「レイラ」と言ってましたが、
 ちょっと沈黙してから「パパ」との事。予想に反して気をつかっているのかも知れない:-)

2009-06-18

みずたマーチ、発見。[もっときれいな色がいいのでは]

今日用事があって役所に行くと、駐車場で日産の“みずたマーチ”を発見しました。日産マーチのTVCFで見ると幸せになるという設定で出て来る“みずたマーチ”ですが、他にシマシマの“しましマーチ”やら“花咲かマーチ”があるようですね。CFと連動したPRのために実際CFに出てきたみずたマーチやしましマーチを街で走らせている話は聞いたけれど、実際に見たのは初めてです。見てたらディーラーで働いている雰囲気の女性が運転していたので、たぶんディーラーの業務用としてPRも兼ねて使っているのかも。もっとブルーに白の水玉とかキレイな色にすればよかったのに、ブラウンに白水玉は遠くから見るとちょっと気持ち悪い。

2009-06-14

突然、釧路へ。[やきとり、やきとり]

うちの奥さんが仕事で留守にした今日、娘とどっか行こうとクルマに乗り込んでみたものの、どこにも行くアテもなくフラフラしていると、釧路に行ってみようとふと思い立ちました。給油してすぐ出発、途中で釧路に住む僕の友達のK太氏にメールして昼ご飯一緒にどうか訊いてみて雨の中を進みます。北海道には梅雨はないというのが一般的な社会的通念だけれど、でも最近どうも6月のこの時期よく天気が崩れるんですよね。これも地球温暖化のせいなのでしょうか。で、無事に釧路のK太氏自宅まで行って彼が時々行くというお店に連れて行ってもらい、なかなか美味しいポークチョップを食べ、娘は海老フライをめずらしくたくさん食べてました。しかし相変わらず突然のお誘いで申し訳ない、、、。そしてランチが終わるとすぐ解散:-) 近くで以前から知ってるパン屋さんに行って、話題の釧路のラッコのくーちゃんパンを購入。左がくーちゃんで右がトトロですね。娘は甘いものが苦手なのにこういうのを買い、結局は食べないんだよな、、、。




ところで巷で地味に流行りつつある(?)「やきとりじいさん体操」。娘も保育園で踊ってます。歌がなかなか耳に残ってしまう。

2009-06-12

ディープでコアな夜。[親同士の意識も高まってきた]

今日は娘の保育園の参観日でした。身体を使った遊びを見せてくれたり親子でおもちゃを作ったりという日を過ごして昼でおしまい。それから先日遠足で行ったというプラネタリウムにまた行きたいというので、星を眺めながらのんびりとした午後を過ごしてきました。プラネタリウムってなかなかいいものですね。で、夜は懇談会があって他の子たちの親と話してきたんだけれど、なかなかみんな精神的な苦労をしてるんだなあとつくづく思う。鬱になってしまったお母さんや、病気で子どもにおにぎりも握る事が出来なくなってしまったお母さんなどの話を聞いたんだけれど、親というのは子どもと一緒に成長しているものなんだという感じもあって、子どもは親が思っているほど子どもではないのも事実かな。我々が思っている以上に物事を自分なりに考えて行動しているようです。今回の懇談会はいつもよりディープな話がよく出て来て、我々が同じクラスになって数年が過ぎ、たぶん親同士の仲間意識も深まったからいろんな話をする事が出来るようになったんだと思う。どんどんネガティヴな話に進まないよう気をつけながら話を進めなくちゃいけなかったけれど(僕は進行役だった)、でもこういう親同士の話し合いというのは必要なんだなと実感。

2009-06-10

正義や組織、あるいは善悪ではないもの。[ビート・ゴーズ・オン]

※『1Q84』に関するネタバレが含まれています。

ハルキさんの新作『1Q84』を読み終えました。ネタバレありますのでご注意を。


まず読み始めた時に思ったのは、これは村上春樹による文学や小説家としての挑戦ではないかという事。大きな船が進行方向をゆっくりと変えるような作業でもあったんじゃないのかなと思う。大きな船が何なのか、なぜ変える必要があったのか、どこに向かっているのか、具体的に表す事は難しいんだけれど、進行を修正したように感じられる。以前に村上春樹は自分が書いたエッセイの中で『ダンス・ダンス・ダンス』は40歳になる前に書かれなければいけない小説だと思って書いたと言っていたが、今年の1月で彼は60歳になった事がこの小説に関わっていると思う。あるいは60歳になろうとしているまで待っていたのかも知れない。でも一区切りするためにもこの小説を書く事は彼にとって大きな作業だったのではないのだろうか。それでも40歳になる前に書かなければいけない小説を書いていた時とは全く違う種類の意気込みを僕は感じた。

この『1Q84』について僕は読む前はもちろん、読んでいる最中にも小説に関わる情報をシャットアウトしていた。この小説に限った事ではなく、小説を読む時は少なからず僕はそういう傾向にある。僕があらすじを知った上で小説を読む事は極めて少ない。だいたい僕はいろんな種類の本を読むタイプではなく、気に入った小説家が書いたものを読む事の方が多いし、同じ小説を何度も読み返す事も多い。出版社のマーケティング方法なのか村上春樹のこの小説に対するこだわりなのか、ラッキーな事に僕が好むように『1Q84』の情報は全然流れていなかった。それは嬉しかった事だけれど、発売してからたまたまNHKのニュースでベストセラーになっている事が報じられているのを目にし、「(今回の小説は)恋愛、宗教、暴力について書かれている」と言った。でも僕はこの本は完全に暴力についての本だと思う。何も拳を作って振り下ろす事だけが暴力ではない。世の中にはいろんな類いの暴力が存在し、そしてそっと静かに人を深く痛めつける種類の暴力にも満ちあふれているのだ。以前から主人公がよくわからないまま非日常的な世界へと引き込まれ、そして困惑するタイプの小説を村上春樹は書いた。いかにもカフカ的な世界、あるいはカミュの『異邦人』にあるような不条理さ、そういうタイプ。幻想的なプロットはあり得ないとしても、現実に我々が生きている世界は不条理さというものに本当は満ちあふれている。村上春樹の初めてのノンフィクション(エッセイや旅行記など自分に関するもの以外という意味で)はオウム真理教による地下鉄サリン事件に関するものだった。そのノンフィクション『アンダー・グラウンド』の中で村上春樹は被害者にインタビューする事により、なぜそんな事に巻き込まれなければいけなかったのか、なぜそんな事が起きたのか、彼らの日常生活に開いた闇を覗いてみようとしたのだと思う。普通の生活を送っている上で起きた暴力、ぽっかりと現実の世界に開いた闇、そして不条理にも巻き込まれた人々、『アンダー・グラウンド』があったからこそ『1Q84』を村上春樹は書けたと考えるのはすごく自然な流れのように思える。必要な行程を経て書かれるものなのだ、という具合に。暴力とは不条理さを持っており、苦難に陥れ、そして常にそれは世の中に満ちあふれている。そしてその暴力が一体何なのかを見極める事もすごく難しい。“暴力がいつも目に見える形をとるとは限らないし、傷口が常に血を流すとは限らないのだ”『1Q84』の中の一節、つまりはそういう事だと思う。

物語は“天吾の世界”と“青豆の世界”が交互に進む。交互の章でふたつの世界は分けられている。『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』のような感じ。幸い天吾には望みがあり、残念ながら青豆には望みがない。だからと言ってどちらが幸せなのか、それは僕にはわからない。そもそも幸せか不幸かの天秤に乗せる事も出来ない。ある意味彼らは結ばれているし、ある意味彼らは結ばれていない。青豆は“彼女はこれまでに自分が失ってきたもののために泣いた。これから自分が失おうとしているために泣いた”。 『羊をめぐる冒険』の中で主人公の「僕」も同じ様に最後で泣いたと記憶している。でも天吾は泣かない。そこには望みがあるから。青豆が生きている世界というのは目に見える暴力の世界であり、最後はヘッケラー&コッホを口の中に入れて引き金を引く事で「終わらせている」。青豆の言葉で言えば「別の世界に動いた」のだ。天吾の世界も暴力が満ちている。でもそれは目に見えない暴力の世界であり、世の中にはいろんな類いの暴力が存在するんだと反吐が出るほど感じられる。そしておそらく天吾は別の世界(死を意味するだけに限らず)へ動く事は出来ない。『空気さなぎ』を校正する事で別の世界へと移動したように思えるのだけれど、実際それは入り口を「彼らのために」開けただけに過ぎない。そして青豆が動く事で天吾は動かなくて済んでいる。静と動、陰と陽、生と死、入口と出口、プラスとマイナス、卵と壁、ソニーとシェール。ビート・ゴーズ・オン。

正義とは何なのか、それについても読んでいて深く考えてしまった。何をもって正義なのか、暴力を用いる正義、宗教を透して見る正義、組織から見る正義、個人から見る正義、様々な正義の存在とその存在理由について。正義を作り出しているのは精神であり、正しいか正しくないかは時や歴史というものが決める。これは村上春樹がエルサレム賞を受賞した時に述べた事でもある。うまく青豆は組織による正義から逃れる事は出来るけれど、それは自ら引き金を引く事によって自分の正義を通している。青豆は青豆でいる以上、組織から逃れる事は出来なかった。青豆が親しくなるあゆみという女性は警察官であり、言うなれば組織の人間でもある一方、警察という組織の枠から外れるような事もしている。組織側から言えばあるべき枠から外れるような行為だと思われる事も、あゆみにしてみれば個人の枠内であった。でも結果的にあゆみは組織、もしくは組織による正義の暗喩だと思われる手錠をかけられたまま死ぬ。警察という組織による正義が生み出した結果ではないけれど、組織の「危うさ」のようなものを感じる事ができる。それに意外な人物が『1Q84』には出てくる。牛河だ。『ねじまき鳥クロニクル』では綿谷昇の裏の仕事を専門とした秘書として出て来るけれど、『1Q84』でも組織の人間として登場する。フィクションの世界を現実の世界の物差を使って同じ人物として考えるのは野暮な事ではあるが、たぶん彼ほど組織の隠喩の存在は他にないと思う。『ねじまき鳥クロニクル』を読んだ時から思っていたのは、おそらく彼はしわだらけで配慮に欠けた格好をするのも、しなやかささえも感じる話術も意図的なものなのだという事。今回『1Q84』に出て来た時もそう思った。あえて演じているのだ。一見情けない雰囲気を持つ牛河だけれど、気がつかないうちにそっとナイフを喉元に当てるような事も出来るのだと思う。もちろん牛河は実際にそんな事をやらない。実際そういう類いの恐怖を与える組織がいる事のメタファーとしての存在でもあるんだと思う。

これは僕の想像でしかないのだけれど、読み始めた時には村上春樹はこの小説の後に何も書かなくなるんじゃないかと思った。暴力に対して直接異議をとなえるのではなく、小説を書く事で異議をとなえる事で終わったと彼は考えたんじゃないのかなと思う。でも彼が小説を書く理由はそれだけではないはず。つまり、それくらい強く彼の思いが伝わって来たんだと僕は考える。小説とはただの物語であると同時に「思う事」を小説を用いて書いていく作業でもある。いろんなメタファーがあって、伝えたい事が見えなくもなる小説もあるし、もちろん全く「思う事」を含まないただの物語もある。「暴力」について書いてあるというのは単なる予測やある種の感想であり、合理的に感情のツジツマを合わせているだけなのかも知れない。もし作者が小説の本意を読者に語ってしまったのなら、そこである意味その小説は役割を終えて死んでしまうのではないのだろうか。はい、ごくろうさん。よかった。もう明日からはいいよ、という具合に。村上春樹作品の優れたところはその「本意」が読み取れるようで、読み取りにくいところでもある。そもそも「本意」があるのかさえも僕はただの読者として判断するしかない。ただその息吹を僕は感じる事ができるし、そういうところに魅力を感じているんだと思う。

発売してあっという間に『1Q84』は本屋から姿を消した。新聞やTVで売り切れているという報道がされ、レジに並ぶ人々みんなが『1Q84』を手にしている姿が映し出され、そして一体どんな小説なのか解説がされた。まさに『1Q84』に出て来る小説『空気さなぎ』と同じような状態だ。僕はそんな光景を目にして何だか居心地悪さを感じていたし、当初はしばらく気が引けていた。『1Q84』というタイトルを最初に耳にした時、当たり前だけれどジョージ・ウェルズの『1984』を僕は思い浮かべたし、実際『1Q84』にも『1984』が出て来る。これじゃまるで本当にビッグ・ブラザーに言われたまま『1Q84』をみんなが買っているようにさえ見えるなと思った。組織だとか集団がもたらす居心地の悪さは読み終わった今でも僕の中から消えていない。読んだから消えるものでもないと思うけれど、でも何かおかしいような気がしている。ものすごく優れた作品であるし、読まれる理由も理解できるけれど、やっぱりどこかに居心地悪さを不本意に残す作品になってしまい、それは後天性のものであって小説とは違う他に付随したところで感じているだけ余計に僕を困惑させたのも事実である。

2009-06-07

Googleのサーバーと同じくらい。[月まであと19年]

と、言う事で20万kmを達成!!ちょうど札幌からの出張帰りでした。かつてのMacを元旦に立ち上げると「謹賀新年」と表示されたように、MFIに「おめでとう」とか「ありがとう」とかそういう類いのメッセージが表示されるかと期待したけど、当たり前ながらそんなものは出てきませんでした:-) それより感謝すべきなのは僕の方なのだ。まあ、よく無事にここまで走ってくれたものだと思う。2002年の11月に購入したので6年と8ヶ月、単純に計算すると1ヶ月に2,500km、1日に83kmくらい走っている事になる。もちろん毎日それほど走っていないので時々まとめてドッと走った結果になるんだけれど、ある時期1年間ほどたしかに毎日60kmほど走っていた頃もあって積もり積もった結果ですね。地球の周囲が4万kmなので既に5周してる事になり、月までの距離が38万kmだから往路半分ちょっとというところ。出来れば月に行って帰りたいほどの距離を走りたいのだけれど、そうなると今までのペースをキープしてもあと19年ほどかかるから、さすがにもう乗れないようになってるかな、、、。

なんとなく200,000で検索してみて発見した事(現時点、約)。
・Googleが所有するサーバーは20万台(もしくは以上)
・中国が北京オリンピックで練習させたチアリーダーは20万人
・HSBC(上海北京銀行)が職員用に発注したiPhoneの数は20万台
・2007年にアメリカ全土で教師によって体罰を受けた生徒数は20万人
・アメリカの退役軍人がホームレスになっている数は20万人
・現在登録されているドメイン数は20万個

2009-06-05

VWにあの風が再来。[もうすぐ20万kmです]

今日やっとスタッドレスタイヤから普通の夏タイヤに交換してきました:-) と言うのも次の冬には新しいスタッドレスを買おうと履き潰す予定でしたが、どうも雨の中を走っていると気持ち悪い。せっかくの初夏の気持ちいい中をこんな気持ちで走るのも惨めなので、交換してもらおうとディーラーへ。やっぱり夏タイヤは気持ちがいいですねえ。昨シーズンだったか奮発してミシュランを買ってよかった:-) タイヤ交換をしてもらっている間にいろいろとショールームに展示されているクルマを見ていると、Sciroccoが!懐かしいなあと思って見てたんですが、2ドア4人の乗りクーペなのに意外とラゲッジルームが広くてびっくり。これでもう少し地味なデザインでもよかったような気がするけれど、まあ、今はそういうものなのでしょう。仲の良いセールスさんと話してたらDVDをいただきました。最近VWはカタログの他、こういうDVDをくれる事が多いな。ここのディーラーはAudiもやっててそちらの方にはQ5が飾ってありました。Audiの初SUVであるQ7の小さいやつで、Q7は7人乗りだけどQ5は5人乗りで、VWで言うTouaregとTiguanみたいなものですね。Q5の内装や装備はいいんだけれど、どうもイマイチ感が拭えなくて、実際に乗ってみると楽しいクルマだと想像する一方、このボディサイズの小ささが何とも言えない。Q7はかなり大きいからQ5との中間のQ6的なサイズが欲しいところです。と言っても買う事はないけど:-) で、タイヤ交換のついでにあちこち簡単に点検してもらったのだけれど、「いつも見る度に思うんですが、もうすぐ20万kmを迎えるGolfでこれほど状態がよいのは他に見た事がありません」と言うのが工場長。まあ、オイルも頻繁に気にしてるし、毎日通勤で往復約30km走ってるし、時々走る長距離がいいのかも。あと550kmほどで遂に20万km達成します。たぶん今週末には:-) そういえば娘といろいろクルマの話を先日してたら、彼女の好みはグリーンのSUVで後ろに(スペア)タイヤがついた感じのらしい。どこで見たんだろう。

2009-06-03

(娘の)世界の始まりと(パパの)ハードボイルド・自前気ぐるみ。[いかに関わるか]

「だいぶ上手になったんじゃない?」とうちの奥さんからのメールに添付されて届いたレイラ画伯の作品、チラシの裏に描いたのは僕だそうです。たぶん今まで描いた作品の中ではいちばん上手かな。頭の上にある“∩”は僕の髪型、今は少し長くなってしまったから適当な分け目がついているだけですが、彼女にとっての僕の髪型というのはずっとソフトモヒカンみたいですね:-) 短くしてもいい季節だし、またソフトモヒカンに戻すか。

先日の夜、娘の保育園で父母の会役員会があって出席してきました。学校でいうPTAみたいなものですね。いろんな気持ちを持って積極的に保育園に関わってくれているパパやママがいて、それぞれいろんな思いがあるんだと思うけれど、いずれにしても保育園ってちょっと中途半端な位置付けでもあるので、関わらない方々にもそれなりに考えがあるんだと思う。保育園というのは幼稚園とは違って教育の場ではなく保育の場、親が働いている子ども達を預かってくれる場所なのです。行政で言えば幼稚園と学校が文部科学省の管轄であるのに対し、保育園は厚生労働省の管轄。自分に言い聞かせるために(もしくはメモ書きとして留めておくためにも)書きますが、僕自身は行政の管轄や定義がどうあれ、娘にとっては学ぶ場所であって欲しいと思うんですよね。多くの子ども達が初めて経験する社会生活の場であり、その中で人とのコミット方法を学び、そして(少し大げさな表現だけれど)生きる方法を学びます。そういう場である以上、親はいろんな形で関わりを持って保育園という小さな彼ら彼女達の生活に関わっていくべきであり、そういう姿を子どもに見せる事はもちろん、それこそ社会の縮図のひとつじゃないのかなあと思うんですよ。僕みたいに自分の小さな世界を大切に生きて来た人間が大きな声で言えるような事でもないけれど、でも、まあ、いろんな世界を娘には見せてあげたいと普段から思っています。自発的に娘がそうする事が出来るようになればすばらしいんだけれど、そのお手伝いだと思って僕なりに僕は保育園になるべく携わるようにしています。そんな理由もあって去年は『リロ&スティッチ』に出て来るエンジェルの着ぐるみを来て保育園の盆踊りを盛り上げたわけですが、今年は何の着ぐるみを着ようか悩んでおります:-)

ちなみにエンジェルってこんなの。ドン・キホーテで買った自前です:-)


2009-06-01

追憶の夏。[ビュイック・センチュリーの想い出]


GMが破産法適用を申請、政府管理下で再建に着手

米自動車最大手ゼネラル・モーターズ(GM)は6月1日午前8時(日本時間同日午後9時)、連邦破産法11条の適用を申請した。米政府はGM再建に向けて約300億ドルを追加融資するとともに、同社株60%を取得し、事実上国有化する。全米自動車労組(UAW)の退職者向け医療基金は17.5%を引き受けるとともに、2.5%分の株式を追加取得できる権利を持つ。

GM工場があるカナダ政府とオンタリオ州政府は95億ドルを融資し、12%の株式を受け取る。また、無担保社債を持つ債権者は10%を引き受け、15%分の株式追加取得権を付与される。

GMは11工場を閉鎖、3工場を一時休止する。工場従業員は2万人削減される見通し。また、不採算ブランドのポンティアック、サターンなどを廃止。さらに、全米6000店の販売店のうち2000店以上を切り離すことで、10万人の人員を減らす方針だ。

CNN.co.jp
http://www.cnn.co.jp/business/CNN200906010021.html


ついにこの日が来たなという感じでしょうか。わかってはいたものの、実際にそうなるとそういう時代なんだなあと思う。様々な理由があると思うし、復活までの日は本当に遠いかも知れないけれど新型車がディーラーに並ぶ日はそう遠くはないような。実を言うと僕が免許を取って初めて乗ったクルマというのはGMでした。当時まだ日本でもヤナセを通じて販売していたBuickのリーガルというセダン、ずっとうちの父親がコラムシフト+ベンチシートのアメリカ車が欲しいと思って買った1台で、当時僕はまだ学生だったから夏休みで帰郷している時は本当にこのクルマによく乗りました。3200ccのV6エンジン、それはもう非常に燃費が悪かった:-)  でもあのアメ車特有のふわふわした感覚とか、たまに今でもアメ車に乗ると身体が覚えているというか、本当によく染み付いててしっかり思い出せます。ポーン、ポーン、ポーンというシートベルト警告音とか、コラムシフトに右手を載せて走る感覚、あとたまに巻き込むカセットテーププレイヤー、あのクルマに関する細かいところが本当に懐かしい。残念ながらリーガルの売れ行きが不要に終わるとヤナセはBuickの輸入をやめてしまい、Buickもゴツいセダンからソフトなデザインに変え、80年代を彷彿とさせるようなボディはさすがに作らなくなってしまう。実を言うとたまに今でも僕はあのBuickに乗っている夢をみます。何か楽しい事が起きるんじゃないかと思ってBuickを走らせた18歳の夏。今18歳に戻りたいとは思わないけれど、でもあの年あのクルマと過ごした夏だけなら戻っていいんじゃないかなと思う。ちなみにこのBuickの後、父の好みは結局ドイツ車に戻っていました:-)
For the times they are a-changin'.