2009-06-10

正義や組織、あるいは善悪ではないもの。[ビート・ゴーズ・オン]

※『1Q84』に関するネタバレが含まれています。

ハルキさんの新作『1Q84』を読み終えました。ネタバレありますのでご注意を。


まず読み始めた時に思ったのは、これは村上春樹による文学や小説家としての挑戦ではないかという事。大きな船が進行方向をゆっくりと変えるような作業でもあったんじゃないのかなと思う。大きな船が何なのか、なぜ変える必要があったのか、どこに向かっているのか、具体的に表す事は難しいんだけれど、進行を修正したように感じられる。以前に村上春樹は自分が書いたエッセイの中で『ダンス・ダンス・ダンス』は40歳になる前に書かれなければいけない小説だと思って書いたと言っていたが、今年の1月で彼は60歳になった事がこの小説に関わっていると思う。あるいは60歳になろうとしているまで待っていたのかも知れない。でも一区切りするためにもこの小説を書く事は彼にとって大きな作業だったのではないのだろうか。それでも40歳になる前に書かなければいけない小説を書いていた時とは全く違う種類の意気込みを僕は感じた。

この『1Q84』について僕は読む前はもちろん、読んでいる最中にも小説に関わる情報をシャットアウトしていた。この小説に限った事ではなく、小説を読む時は少なからず僕はそういう傾向にある。僕があらすじを知った上で小説を読む事は極めて少ない。だいたい僕はいろんな種類の本を読むタイプではなく、気に入った小説家が書いたものを読む事の方が多いし、同じ小説を何度も読み返す事も多い。出版社のマーケティング方法なのか村上春樹のこの小説に対するこだわりなのか、ラッキーな事に僕が好むように『1Q84』の情報は全然流れていなかった。それは嬉しかった事だけれど、発売してからたまたまNHKのニュースでベストセラーになっている事が報じられているのを目にし、「(今回の小説は)恋愛、宗教、暴力について書かれている」と言った。でも僕はこの本は完全に暴力についての本だと思う。何も拳を作って振り下ろす事だけが暴力ではない。世の中にはいろんな類いの暴力が存在し、そしてそっと静かに人を深く痛めつける種類の暴力にも満ちあふれているのだ。以前から主人公がよくわからないまま非日常的な世界へと引き込まれ、そして困惑するタイプの小説を村上春樹は書いた。いかにもカフカ的な世界、あるいはカミュの『異邦人』にあるような不条理さ、そういうタイプ。幻想的なプロットはあり得ないとしても、現実に我々が生きている世界は不条理さというものに本当は満ちあふれている。村上春樹の初めてのノンフィクション(エッセイや旅行記など自分に関するもの以外という意味で)はオウム真理教による地下鉄サリン事件に関するものだった。そのノンフィクション『アンダー・グラウンド』の中で村上春樹は被害者にインタビューする事により、なぜそんな事に巻き込まれなければいけなかったのか、なぜそんな事が起きたのか、彼らの日常生活に開いた闇を覗いてみようとしたのだと思う。普通の生活を送っている上で起きた暴力、ぽっかりと現実の世界に開いた闇、そして不条理にも巻き込まれた人々、『アンダー・グラウンド』があったからこそ『1Q84』を村上春樹は書けたと考えるのはすごく自然な流れのように思える。必要な行程を経て書かれるものなのだ、という具合に。暴力とは不条理さを持っており、苦難に陥れ、そして常にそれは世の中に満ちあふれている。そしてその暴力が一体何なのかを見極める事もすごく難しい。“暴力がいつも目に見える形をとるとは限らないし、傷口が常に血を流すとは限らないのだ”『1Q84』の中の一節、つまりはそういう事だと思う。

物語は“天吾の世界”と“青豆の世界”が交互に進む。交互の章でふたつの世界は分けられている。『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』のような感じ。幸い天吾には望みがあり、残念ながら青豆には望みがない。だからと言ってどちらが幸せなのか、それは僕にはわからない。そもそも幸せか不幸かの天秤に乗せる事も出来ない。ある意味彼らは結ばれているし、ある意味彼らは結ばれていない。青豆は“彼女はこれまでに自分が失ってきたもののために泣いた。これから自分が失おうとしているために泣いた”。 『羊をめぐる冒険』の中で主人公の「僕」も同じ様に最後で泣いたと記憶している。でも天吾は泣かない。そこには望みがあるから。青豆が生きている世界というのは目に見える暴力の世界であり、最後はヘッケラー&コッホを口の中に入れて引き金を引く事で「終わらせている」。青豆の言葉で言えば「別の世界に動いた」のだ。天吾の世界も暴力が満ちている。でもそれは目に見えない暴力の世界であり、世の中にはいろんな類いの暴力が存在するんだと反吐が出るほど感じられる。そしておそらく天吾は別の世界(死を意味するだけに限らず)へ動く事は出来ない。『空気さなぎ』を校正する事で別の世界へと移動したように思えるのだけれど、実際それは入り口を「彼らのために」開けただけに過ぎない。そして青豆が動く事で天吾は動かなくて済んでいる。静と動、陰と陽、生と死、入口と出口、プラスとマイナス、卵と壁、ソニーとシェール。ビート・ゴーズ・オン。

正義とは何なのか、それについても読んでいて深く考えてしまった。何をもって正義なのか、暴力を用いる正義、宗教を透して見る正義、組織から見る正義、個人から見る正義、様々な正義の存在とその存在理由について。正義を作り出しているのは精神であり、正しいか正しくないかは時や歴史というものが決める。これは村上春樹がエルサレム賞を受賞した時に述べた事でもある。うまく青豆は組織による正義から逃れる事は出来るけれど、それは自ら引き金を引く事によって自分の正義を通している。青豆は青豆でいる以上、組織から逃れる事は出来なかった。青豆が親しくなるあゆみという女性は警察官であり、言うなれば組織の人間でもある一方、警察という組織の枠から外れるような事もしている。組織側から言えばあるべき枠から外れるような行為だと思われる事も、あゆみにしてみれば個人の枠内であった。でも結果的にあゆみは組織、もしくは組織による正義の暗喩だと思われる手錠をかけられたまま死ぬ。警察という組織による正義が生み出した結果ではないけれど、組織の「危うさ」のようなものを感じる事ができる。それに意外な人物が『1Q84』には出てくる。牛河だ。『ねじまき鳥クロニクル』では綿谷昇の裏の仕事を専門とした秘書として出て来るけれど、『1Q84』でも組織の人間として登場する。フィクションの世界を現実の世界の物差を使って同じ人物として考えるのは野暮な事ではあるが、たぶん彼ほど組織の隠喩の存在は他にないと思う。『ねじまき鳥クロニクル』を読んだ時から思っていたのは、おそらく彼はしわだらけで配慮に欠けた格好をするのも、しなやかささえも感じる話術も意図的なものなのだという事。今回『1Q84』に出て来た時もそう思った。あえて演じているのだ。一見情けない雰囲気を持つ牛河だけれど、気がつかないうちにそっとナイフを喉元に当てるような事も出来るのだと思う。もちろん牛河は実際にそんな事をやらない。実際そういう類いの恐怖を与える組織がいる事のメタファーとしての存在でもあるんだと思う。

これは僕の想像でしかないのだけれど、読み始めた時には村上春樹はこの小説の後に何も書かなくなるんじゃないかと思った。暴力に対して直接異議をとなえるのではなく、小説を書く事で異議をとなえる事で終わったと彼は考えたんじゃないのかなと思う。でも彼が小説を書く理由はそれだけではないはず。つまり、それくらい強く彼の思いが伝わって来たんだと僕は考える。小説とはただの物語であると同時に「思う事」を小説を用いて書いていく作業でもある。いろんなメタファーがあって、伝えたい事が見えなくもなる小説もあるし、もちろん全く「思う事」を含まないただの物語もある。「暴力」について書いてあるというのは単なる予測やある種の感想であり、合理的に感情のツジツマを合わせているだけなのかも知れない。もし作者が小説の本意を読者に語ってしまったのなら、そこである意味その小説は役割を終えて死んでしまうのではないのだろうか。はい、ごくろうさん。よかった。もう明日からはいいよ、という具合に。村上春樹作品の優れたところはその「本意」が読み取れるようで、読み取りにくいところでもある。そもそも「本意」があるのかさえも僕はただの読者として判断するしかない。ただその息吹を僕は感じる事ができるし、そういうところに魅力を感じているんだと思う。

発売してあっという間に『1Q84』は本屋から姿を消した。新聞やTVで売り切れているという報道がされ、レジに並ぶ人々みんなが『1Q84』を手にしている姿が映し出され、そして一体どんな小説なのか解説がされた。まさに『1Q84』に出て来る小説『空気さなぎ』と同じような状態だ。僕はそんな光景を目にして何だか居心地悪さを感じていたし、当初はしばらく気が引けていた。『1Q84』というタイトルを最初に耳にした時、当たり前だけれどジョージ・ウェルズの『1984』を僕は思い浮かべたし、実際『1Q84』にも『1984』が出て来る。これじゃまるで本当にビッグ・ブラザーに言われたまま『1Q84』をみんなが買っているようにさえ見えるなと思った。組織だとか集団がもたらす居心地の悪さは読み終わった今でも僕の中から消えていない。読んだから消えるものでもないと思うけれど、でも何かおかしいような気がしている。ものすごく優れた作品であるし、読まれる理由も理解できるけれど、やっぱりどこかに居心地悪さを不本意に残す作品になってしまい、それは後天性のものであって小説とは違う他に付随したところで感じているだけ余計に僕を困惑させたのも事実である。

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